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戦国時代・上杉家の執政・直江兼続の偉業を紹介する専門サイトです。主に米沢での偉業を中心にご紹介します。

長谷堂城下での激戦後、近隣の村人達が上泉主水泰綱を始め戦死者を弔った供養塔が、今でも残っています。

長谷堂合戦跡

長谷堂合戦跡・主水塚
主水塚
 長谷堂合戦の際に殉死した上杉軍直江兼続配下の武将・上泉主水泰綱はじめ、上杉・最上両軍の戦死者を供養したといわれる供養塔。
合戦の後、近隣に住む村人達が両軍の死者を埋葬し、供養を続けてきたと言われています。
 この供養塔は、長谷堂城跡より国道458号線を北上してすぐの道路沿いにあります。
長谷堂合戦とは
 慶長5年(1600年)、西方で日本歴史上に残る関ヶ原の合戦 が起こりました。時を同じくして、山形県山形市では「出羽の関ヶ原」と呼ばれる合戦がありました。
 この合戦は、豊臣政権を滅ぼそうとする徳川家康に危機感を持った上杉家が、徳川方についた最上氏を制圧するために起こした合戦といわれています。
 長谷堂合戦の前に、上杉家執政・直江兼続は徳川家康を挑発する書状を徳川方に送っています(直江状)。この書状に対し立腹した徳川家康が出羽へ出兵するも、西方で石田三成が兵をあげたため、引き返す形となりました。(関ヶ原の合戦)。
 この時、上杉景勝は家康軍に追い討ちをかけず徳川方の最上家を攻めるべく、直江兼続が総大将となり山形へと攻め上ります。
 しかし、関ヶ原の合戦で西方敗北との報を戦陣で聞いた直江兼続は、この合戦が無意味なものとなったことを悟り、即米沢へ帰還することにしました。
 攻撃から反転、敗走軍となった上杉軍に、最上軍と最上家から援軍要請を受けた伊達軍が襲いかかり、長谷堂城のある山の麓は激戦地となりました。直江兼続は、鉄砲隊を使い、深追いしてくる最上軍を攻撃。最上義光は、上杉軍の攻撃により家伝の兜に傷をうけています。
 この戦闘は前田利益・水原親憲らの善戦もあり、 直江兼続は死者を出しつつも整然と米沢へ帰還しました。
 この敗走戦での上杉軍の整然とした動きを、徳川家康も賞賛したといわれています。