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戦国時代・上杉家の執政・直江兼続の偉業を紹介する専門サイトです。主に米沢での偉業を中心にご紹介します。

上杉家とともに米沢へ入った直江兼続は、有事の際の準備にも心を配り、白布高湯での鉄砲製造を行いました。

「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の碑

「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の碑白布温泉街にある
「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の碑
 慶長6年(1601年)、上杉景勝は会津120万石から米沢30万石に減封され、それに伴い兼続も米沢に入り、城下町の整備を行うととともに、その陰では戦いの準備とも言える鉄砲製造に着手しました。
 関西方面から鉄砲師を呼び寄せ、人里離れた白布高湯(現白布温泉)にて火縄銃を製造させました。もともと白布高湯は鉄砲製造に必要な石炭、火薬の原料の硫黄が豊富で、造られた鉄砲の数は1000挺にのぼるといわれています。
 また兼続は、鉄砲の撃ち方などを記した「鉄砲稽古定」を発し、射撃訓練を奨励しました。
 この鉄砲製造と射撃訓練奨励は、「大阪冬の陣」で成果が発揮され、後に徳川秀忠より感謝状が贈られています。

米沢藩の火縄銃
 米沢城下には鉄砲町と呼ばれる町があります。直江兼続は、鉄砲にかかわる職人を藩外から招き、白布高湯で火縄銃を製造させ、後にこの任務を終えた鉄砲職人が移住した町です。彼らはそこで、鉄砲の製造や修理を続けました。
 米沢藩の鉄砲(火縄銃)は大きく重く、大筒と呼ばれるものに近いタイプの鉄砲もありました。これらの鉄砲は、白布高湯で直江兼続が研究・開発させたものと言われています。
米沢藩の鉄砲が大きいのは、音を大きく響かせることで、騎馬隊の馬を驚かせ、動けなくすることに狙いがあったのではないかという説もあります。
そしてそれらの火縄銃を取り扱う訓練を怠りませんでした。現在の白子神社近く(現在の警察署近辺)に馬場を設け、そこで鉄砲の訓練をしていたと伝えられています。