豊臣秀吉の死、徳川家康の台頭と時代の流れが大きく変化する中、兼続は上杉家存続のために奮闘します。
直江兼続 −壮年期−
徳川家康の台頭
慶長3年(1598年)秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになります。秀吉の家臣石田三成と懇意にあった兼続は、家康との対立を決意。会津にいる景勝に、謀反の疑いありとして、じかに釈明せよという家康に対し、兼続は暗に家康こそ謀反を考えているのではないかという書状を送り、怒った家康は会津征伐を決意します。この書状は「直江状」として今も伝えられています。慶長5年(1600年)、ついに家康は会津征伐のために動き始めました。
しかし、同年7月、石田三成が家康打倒の兵をあげ、あわてた家康は急遽兵を西に向かわせました。このとき兼続は家康軍を追撃し、家康を倒すことを景勝に進言しますが、景勝は「謙信公の義の教えをもってすれば、上杉家に退却する敵を追い討ちする戦法はない」と許しませんでした。
このとき、兼続の心は確実に天下を狙っていたはずです。しかし、この景勝の決断が上杉家を救うことになります。
関が原の戦い
慶長5年(1600年)9月、石田三成率いる西軍と、徳川家康率いる東軍が激突した関が原の戦いは東軍が勝利し、天下人家康の時代が訪れます。上杉軍は関が原の戦いの間、東軍に加担した伊達軍や最上軍と戦い、兼続も軍師としてその才気を発揮しますが、西軍敗北によって窮地に立たされました。家康政権へ
関が原の戦いの敗戦後、家康に徹底抗戦すべきとする家臣をなだめ、兼続は上杉家存続のために和議の交渉にはいります。家康の側近本田正信を交渉相手とし、見事な戦略で上杉家存続を許されました。兼続の戦略と同時に、会津征伐の際、景勝が家康軍を追撃しなかったことに対する感謝の表われであるともいわれています。慶長6年(1601年)、景勝は兼続とともに上洛して家康に謝罪します。許されたとはいえ、会津120万石から出羽米沢30万石へ減移封となりました。