まだ小さい町だった米沢への上杉家の移動。大人数を受け入れるための、町づくりと藩政の大仕事を、直江兼続はどのように行ったのでしょうか。
直江兼続 −米沢期−
慶長6年9月、景勝は米沢に移りました。と同時に、家臣やその家族など合わせて数万人が一緒に移り住んだといわれています。小さな城下町は突然人であふれ、住まいの確保は至難の業でした。兼続は早急にまちづくりにかかります。本丸、二の丸の整備、三の丸の新設、侍町、町人町の整備、それに伴う生活用水路の整備など、短時間のうちにまちの骨格を作り上げました。(兼続のまちづくり)治水事業
兼続は特に治水事業に力をいれました。米沢の東を流れる松川はたびたび氾濫を起こし、川沿いの村は水害に苦しんでいました。そこで、約10kmわたって谷地川原堤防を築き、田畑や村民を守りました。今でも「直江堤公園」として一部が保存されています。(直江堤公園)
また、掘立川や木場川、御入水川を開削。猿尾堰、帯刀堰を築き、農地の灌漑用水や城下の生活用水の確保に努めました。現在も流雪溝などに形を変えてはいますが、この2つの堰から取り入れられた水は、米沢の市民生活に欠かせない大切なものとなっています。
殖産興業
そして、農民の生活にも目を向け、月毎に農民がどのような心構えで働いたらよいかを記した「地下人上下共身持之書(四季農戒書)」を表し、日常生活の隅々まで気を使った指導をしました。
米沢市内に現在も残るウコギ垣
ウコギ
ウコギは、現在も米沢の郷土食として活躍しています。
戦に備えて
兼続は町づくりとともに、万が一に備え、人里離れた吾妻山中で鉄砲製造に着手します。造られた鉄砲は1000挺あまりにのぼるといわれています。この鉄砲は「大阪冬の陣」で大活躍しました。 また、各寺々に奨励した「万年塔」と呼ばれる墓石は、戦の際に積み上げれば防護壁になるようにとの考えから造られました。米沢のお寺には、今でも数多くの「万年塔」が残されています。
文武兼備
景勝のもとで戦略家として活躍した兼続は、文化人としての才能も発揮しています。米沢市に隣接する高畠町にある亀岡文殊堂には、兼続が作った和歌や漢詩が残されています。 また国内をはじめ、中国や韓国の貴重な本の収集家としても有名でした。世界で唯一現存する宋判の「史記」「漢書」「後漢書」(国宝・国立歴史民族博物館蔵)や、唐時代の医学書「備急千金要方」(重要文化財・国立歴史民族博物館蔵)も兼続のコレクションです。このほかにも市立米沢図書館が所蔵する、室町時代に平仮名交じりで書かれた写本「古點平家物語」や兼続自ら書写した「古文真宝後集抄」、朝鮮出兵の際に持ち帰ったといわれている「山谷詩集」などの数種の朝鮮古活字本が残っています。
学問の奨励
兼続は臨済宗の寺院「禅林寺」(現法泉寺)を創建し、米沢藩士の子弟を教育する学問所としました。そこは「禅林文庫」と呼ばれ、兼続が集めた書籍が納められました。この学問奨励の精神は、後に上杉鷹山公が創設した藩校興譲館へと受け継がれました。 豊臣政権から徳川政権へ その狭間の中で
関が原の合戦後、徳川家に忠誠を誓った上杉家でしたが、さらに結びつきを強固にするために、兼続は家康の懐刀といわれた本多正信の息子、本多政重を長女お松の養子に迎えました。 家康が征夷大将軍となり、世の中は安泰に納まっているようにみえましたが、ついに豊臣家の滅亡のときが近づいていました。
兼続は内政に奮闘するかたわら、慶長19年、上杉軍を引き連れて「大阪冬の陣」に参戦します。ここでも、おおいに武功を挙げ、徳川家の勝利に尽力しました。
「大阪冬の陣」終結の翌年、元和2年(1616年)家康は73歳で死去。天下は徳川幕府のもと、本当に安泰な時代を迎えました。
その3年後、元和5年(1619年)12月19日、体調を崩していた兼続は、江戸桜田の鱗屋敷で生涯を閉じました。享年60歳。