2008年5月3日に行われた川中島合戦について。
トピックス −2008年上杉まつり−
2008年5月3日 上杉まつり 川中島合戦
上杉まつりのメインイベント川中島合戦が松川河川敷公園にて行われました。ここで再現される合戦は、永禄4年(1561年)9月10日に行われた、川中島合戦の中で最も大規模だったといわれている「八幡原の戦い」です。
武田軍を叩くべく妻女山に陣取った上杉謙信と、海津城に入城した武田信玄のにらみ合いが続きましたが、士気の低下を恐れた武田軍がついに動きます。 武田軍の軍師山本勘助と馬場信春は兵を本隊と別働隊に分け、別働隊(高坂隊)は妻女山の上杉軍を攻撃し、山を降りた上杉軍を平野部に布陣した本隊が待ち伏せ、別働隊と挟撃するという作戦を実行しました。これはきつつきが虫が潜む木をたたき、驚いて飛び出した虫を食べることに似ているところから「きつつき戦法」と名づけられました。
しかし、上杉軍は武田軍の動きを即座に察知し、夜陰に乗じて妻女山を降り、雨宮の渡しから千曲川を渡って武田軍の対岸に布陣しました。
千曲川をおおう深い朝霧が晴れたとき、いるはずのない上杉軍が眼前に現れ、信玄率いる武田軍は愕然とします。
上杉まつりの「川中島合戦」はこの場面から再現されます。
上杉謙信と武田信玄の一騎打ちで有名な「三太刀七太刀」や武田軍の別働隊(高坂隊)が川を渡って駆けつけるシーンなど、見所がいっぱいです。
川を渡る高坂隊
川中島合戦の主な流れ
1.朝霧晴れる
早朝の霧が晴れ、信玄が眼前に見たものは妻女山にいるはずの一万を越える上杉全軍でした。ついに川中島合戦の火ぶたは切って落とされました。不意をつかれて動揺する八千の武田軍将兵に対して、上杉軍による猛烈な攻撃が開始されました。2.車懸りvs鶴翼
「きつつきの戦法」を見破られ、この場の兵力を減らしている武田軍は苦戦を強いられました。妻女山攻撃隊が戦場に着くまで、なんとか持ちこたえようと、十二段に構えた「鶴翼の陣」で必死に戦う武田軍。これに対し「車懸りの戦法」で攻める上杉軍は、信玄の本陣を固める十二段の備えを次々と破っていきました。 3.一騎打ち
乱戦のさなか謙信公がただ一騎、風林火山の戦旗に囲まれた武田軍の本陣に乗り入れた時、信玄もまた一人でありました。壊滅一歩手前の苦戦の中で、信玄の旗本はすべて本営の外で敵と斬り結んでいました。戦国の世の宿命のライバルが、今その雌雄を決しようとしていました。馬上の謙信公がたちを振りかざして斬りつけ、信玄がそれを軍扇で受けます。
一太刀、二太刀、
そして三太刀
そして三太刀
やがて信玄の中間頭が駆けつけ、その突き出した槍が謙信公の乗馬を傷つけました。馬は驚き棒立ちとなり、次いで狂ったように走り去りました。信玄はあやうく命拾いし、両雄の一騎打ちは終わりました。
4.川渡り援軍
合戦が始まってから三時間。戦局は血みどろの白兵戦にあり、総計二万の大軍が入り乱れた戦いで、武田軍の多くの武将が散っていきました。午前十時、妻女山を空しく衝いた武田軍の別働隊・高坂隊一万二千名が山を下り、川を渡って八幡原に駆けつけました。この援軍で上杉軍は挟み打ちにあい、形勢は逆転し始めていきました。
5.収束
武田軍の援軍の出現に上杉軍の隊列は崩れ始め、気力を取り戻して追いすがる武田軍。疲れの見え始めた上杉軍将兵は、新手の武田軍に苦戦を強いられていきました。謙信公が部下とともに善光寺に帰り着いた時、日は西に傾いていたといいます。
「川中島合戦の主な流れ」−米沢上杉まつりチラシより−